打ち合わせの最中に電話が鳴った。
パートナーのクローナーはその電話を取ると、あっという間にニヤニヤとし始めた。そして電話を切ると、僕に「コーヒー飲みに行くけど、一緒に行くかい?」と言った。
「もう10時だけど、こんな時間にやっている店、あるのか?」
なにしろ、マンハイムから50キロくらい離れている小さな町にポツンとある会社の会議室である。このちかくにコーヒー・ショップがあるとは思えなかった。
「ちょっと遠いけどな。けっこう美味いコーヒー屋だぜ。行くかい?」
「仕事は?」
「もう止め。こんな遅くまで働くのは良くないことだ。」
「なに言ってるんだ、週明けまでに仕上げたいったのはお前じゃないか。」
「それでも、もう止め。友達のピョートルからの誘いだからな。断れない。」
そんな話をしているうちに、クローナーの携帯電話が鳴った。その電話に出て一言二言話した後、クローナーは僕を連れて事務所を出た。
クローナーのクルマはBMWである。さすがにこんな時間まで仕事をしている人間はいなので、駐車場には彼の赤いBMWだけが停まっていた。
ゲートのセキュリティに挨拶して、会社の外へ出るとカーステレオを点けてそのままアウトバーンの入り口まで走った。
鳴っているのはデューク・ジョーダンの後期のトリオのもの。スティープルチェイス盤。
「友達と行くんだろ?」と僕が聞くと。
「ああ、もうちょっと先で待っていると思う。」とクローナーは返事をした。
そしてそのままアウトバーンに入った。入った瞬間に急加速をする。
マンハイムは、ドイツ国内を縦横に走るアウトバーンの大きなクロスポイントなんだそうだ。ここを起点にして、東西南北どこへでも自由に行けるという。いつもこのBMWでフランクフルト空港へ迎えに来てくれるクローナーが走りながら、そう自慢している。
しかしドイツ人は総じてスピード狂だね。僕が知っているドイツ人は皆アウトバーンに乗った瞬間からアクセルが踏みっぱなしになる。
クローナーもそうだ。すでにBMWのスピードメーターは200km/secを超えていた。
「もうちょっと行くと、ピョートルのBMWに会うよ。」とクローナーが言った。
「待ち合わせはアウトバーンの上で。か?」
「ああ。奴はシュットガルトだから。」
「 シュットガルトから?」
「ああ。」
「コーヒー飲みに??」
「ああ。」
「どこへ??」
「サンドニ通り」
「サンドニ通り??」僕はイヤな予感が走った。 僕が知っているサンドニという通りは一つしかない。セーヌ川のある街である。・・陸続きだからね。行けないことはない。。
スピードは260km/secちかく。前を走るBMWのテールランプが赤く見えている。
アウトバーンに照明はない。したがって夜は真っ暗になる。周辺に、一緒に走る車がないと、本当に頼りは自分の車のライトだけになる。日本の照明に照らされた高速道路に慣れていると、なんとも怖い雰囲気だ。
ときおり見える道路標示は日本と同じ青い看板だが、これがライトにふあっと浮かぶと、たちまち吹き飛ばされるように車の後ろに流れていく。前にも後ろにも漆黒の闇。そしてそのまったくの暗闇の中を、非日常的な高速で切り裂くように疾走する2台のBMW。車内に静かに流れるデューク・ジョーダンのピアノの音に相まって、僕はまるで全ての世界から隔絶しているような感覚に包まれた。クローナーは鼻歌さえもらしている。
「ここを走っていると、本当にドイツへ帰ってきて良かったと思うよ。」とクローナーが言った。そしてしばらく沈黙した後「・・死神より早く走れば良いんだよ。」と、ぽつりと言った。
その言葉に僕は彼の「安らぎ」を感じた。
無人の国境ザールブュリュッケンからドイツを出ると、そのまま高速に乗ってパリまでは凡そ3時間半くらいだろうか。ほとんど車の走っていない道だった。あとでルートマップを見てみたら、
ザールブュリュッケンからはオートルートA4をひたすら真っ直ぐ西へ向かってメッツ、ランスを抜けて約500kmの道のりだったということが判った。そのときは幻想的な暗闇のクルージングに酩酊していて、そんなことはカケラも浮かばなかったが。
僕がピョートルと握手をしたのは、パリのサンドニ通りにある小さな24時間営業のレストランで。
そしてそこで1時間あまり、とりとめのない話をしながらコーヒーを飲んで朝食を済ますと、二台のBMWはそのまま高速に乗り、同じ道を行きと殆ど変わらない速度でマンハイムに戻った。